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C53の生い立ち又構造など今まで知らなかった事ばかりで大変勉強になりました。C53の映像ドラフト音は鉄道記録映画の鐵道信號をRUclipsで何回も見ました。数台の現役C53が登場するので好きな動画の1つです。
ご支援ご視聴頂きありがとうございます。あのキングレコードですがかなり当時話題になっていました。でも英国の3気筒の音(今回収録している中の)と聞き比べると位相がずれているように思うのですが、正しいC53のドラフト音を言い当ててくれる方ってもういらっしゃらないと思いますが、どうなんでしょうか?
実際の運用は別にして、形態的スマートさは戦前の美意識を表現していて美しい。完成時の戦艦長門に一脈通じる直線と曲線の調和を感じます。
ご視聴頂きありがとうございます。戦前の美意識。この視点の探求は良いヒントをいただきました。ありがとうございます。C52からグレスリー弁装置のためのカバー、エプロンをつけたことが、C53のスタイルを決定しましたね。
C53デザイン的には綺麗な機関車でしたが当時の🆕流線型ブームも有りカバーを取り付けられたのが強いインパクトを与えましたね❗ 流線型も期待以上の効果もあげられず🔧メンテナンス製の悪さも手伝い元の姿に戻され🆕流線型の活躍も短命に終わり🌠後のC57などに活躍の場を譲る形に成りましたね😵
ご視聴頂きありがとうございます。流線形自体はC55を含めあまり興味ないのですが、C53のメカニズムにはとても惹かれます。特に英国で3気筒の活躍を目の当たりにし、なんで日本では失敗したのだろうということがC53への関心の始まりでした。
こんばんは。まさかのお中元をいただいた気分で嬉しかったです。3シリンダーの音を低速再生すると本当にワルツだな~とか、給水温め器はまさかの前輪の前!とか、今回も知らなかったことが沢山ありました。そしてグレズリー式弁装置の模型、魔理沙に言われてみると「むしろこんなんでよく動いていたなあC53」と。真夏の納涼ホラーですね・・・。それでも、少なくとも45号機1両が残って、眺めながら考えることができるのは有難いことだと思います。
ご視聴頂きありがとうございます。週中に製作したのは今日が旗日だったこと、旧型客車がスカを引いたこと、アンケートでC53落選続きで可哀想になったからです。梅小路は確か以前には第三シリンダーの下に鏡があってよく観察できたのですが、今は取り払われていますね。大宮の模型もこの動画のあり様です。時代が経ちすぎて検証したり興味を示す対象から外れてきたんだなぁと思っています。梅小路の構想を聞いた時にはC53やC51が動態で見れると、かなり興奮したものでした。
C53を始めて知ったのは模型屋さんのショーケースでした。他の国産蒸気機関車とは違ったスタイルがとても魅力的で、3気筒と聞いてもピンと来なかったのですがNHKラジオの音楽番組で3気筒蒸気機関車のドラフト音を紹介した事が切っ掛けで関心を持ちました。紹介された機関車は等間隔で動作するタイプでは無く、”何回転かすると1拍重なる”とパーソナリティが説明していて、独特のブラスト音がとてもユニークだったのを今も覚えております。番組の締めはオネッゲルのパシフィック231でした。
ご視聴頂きありがとうございます。私は2回ともC53を批判していますが、形態的には大好きな機関車の部類です。(両極の片側ではタンクのあれが一番下)動画の音だけ聞いて!の機関車はA3のグレスリー弁の三気筒です。ですから動画の後で挿入した他の方のRUclips動画のC52の音と比べていただくと、何かC52が調律がずれているんじゃ無いのかな?と思ったわけです。ドラフト音ですから三気筒の機構上のバランスとは違うかとも思いますが、あれが正しい音なのかとても知りたいです。そうであればかなり音でも魅力ありますね。
C53のドラフト音を初めて聴いたのは、父が持っていたレコードでした3シリンダーのリズミカルな加速音、高速時の連続音にワクワクしたのを覚えています構造的に問題が沢山あった様ですが、個人的には好きなカマの一つです。
ご視聴頂きありがとうございます。私はいつもC53を悪く言っていますが、かなり大好きな機関車です。機関車には責任ないし設計者が拙かったです。
本当だ3シリンダー車はドラフト音も「シャカショコショコシャカショコショコ」と3拍子で鳴ってますね。失敗作と言ってしまえばそれまでだけど、このC53からC55にかけての試行錯誤があったからこそC57やC59という傑作機が生まれたのだと思います。
himatsさん、ご視聴頂きましてありがとうございます。おっしゃる通り、反面教師になりましたね。日本の技術と狭軌鉄道では3シリンダーは無理だということを理解した訳です。2シリンダーでC53を上回る性能を出すことを目標に開発されたC59ですが、鉄道ファンの間ではあまり人気なくて残念です。私がJNRの機関車の中で最も好きなんですけど、あまり話題になりません。
C53形の場合、客車が木製から鋼製に変わって列車が重くなった事でスピードダウンをせずに牽引力を向上させる為、当時の欧米の流行に乗って3シリンダー機関車になりましたが、動画の内容通りの理由と、運転の調整が難しい事もあって短命に終わってしまった訳ですが、スタイルが今までのイギリス🇬🇧風の曲線的デザインからドイツ🇩🇪風の直線的デザインに切り替えられた事で今後の機関車のデザインにも影響を与えた事は間違いないでしょう。京都鉄道博物館になる前の梅小路蒸気機関車館に行った事がありますが、貴重な保存機が綺麗な状態で残っているのはありがたいですね。動画で野良SLから一転してレストア作業決定になったC56 135が出てきたのも良かったです。
ご視聴頂きありがとうございます。C53落選しまくりで可哀想で動画作りました。私はスタイルはとても好きで、好き・嫌いで言えば好きが大きく上回ります。単にレアとか見たことがないからでは無くてその奇抜なスタイルです。
学生時代にOB職員から見せてもらった国鉄の戦前と思われる(D51が新型機関車とあった為)整備、技術取扱い書物でスポーク動輪が凄く歪んでねじれてしまった写真を見たいことあるのですが、長年C51だと思い込んでいたけど、動画見ていたらもしかしたらC53だったのかもしれない……(写真は機関車から外された状態でした)C55では補強リブの「水かき」スポークに強化したのが美しかったです。
kaedeさん、ご視聴頂きありがとうございます。C51はスポークはかなり問題だったので、C51では無いでしょうか。改良型のC54は1本スポークを増やしていますし。動輪の美しさではC55よりC54の方が繊細に見えて綺麗です。
再度投稿します。C53は戦時中に酷使されて戦後は至るところで放置されて解体待ちの状態に。例えば2シリンダーに改造するという案は無かったのか?動輪のクランクが違うので90度のに交換しないといけないが。軸重がどうなるか全体の重量バランスなど問題は色々あると思うが
SKTさん、ご視聴頂きありがとうございました。そうですね、2気筒考えられますね。私は、このような形になるのだったら、C52のアルコの輸入機でよかったんじゃないのと思っています。C53ほど強力ではないでしょうが、C51よりは良いかなと。適当なこと言ってすみません。
同じ走行区間を同じ負荷条件でC53とC59に比較牽引させたら水と石炭の消費量はC59の方が少なかったという記事を見ましたこれでC59への置き換えは決定しC62の登場で廃車が加速された梅小路のC5345、再び走行する姿を見たいと思ってますが現地の整備担当の方に質問したら一言僕らには無理です出来ませんと言われました1961年に復活した時、鷹取工場には難しいシリンダーの調整を出来る人が居たのでしょうね。
ご視聴頂きありがとうございます。同じ記事をどこかで見た記憶があります。昭和36年の復活運転ではまだ調整できる職員が残っていたわけで、それでもかなり難儀だったと聞いています。ですからC53のグレスリー弁はマニュアル通りに調整できない代物であり、それが加工精度の問題や部品の強度だったり、個体差での問題だったのでしょうね。ですからC53のコンセプトは素晴らしいですが、設計含め現場が追いついていなかったわけです。グレスリー弁自体の機関車は外国ではしっかり今でも活躍していますから、適切に作られれば素晴らしい構造だと思います。(大宮の模型も調整できる人がいないのでしょうね?)
戦前は各区に名人がいたそうです更に特急、急行担当区は一等缶の23.33.47などテンダーに増炭板を取り付けた独特のスタイルで専用の練炭を焚き機関士も判任官の方が運転していたそうです
現在梅小路に保存されているC53 45号機も廃車後は国鉄吹田工場敷地内の目立たない片隅に雨ざらしで放置され、そのままでは朽ち果ててしまうのを待つだけ状態だったのを鉄道開通90周年の記念として完全レストアさせ自力走行可能な状態に復元させた…というものだったらしいですね。もし、その前に邪魔者扱いされ解体されていたらC54などとともにもうこの世に1両も存在していない幻の機関車となっていたのでしょう。復活後は弁天町にあった交通科学博物館に静態保存として展示され後に梅小路蒸気機関車館オープン時に梅小路に移され静態保存が続いていますが、それなら復元後は梅小路機関区か吹田機関区預かりとして技術を継承させておけばよかったのでは、と思ったりもしましたが。
ご視聴頂きありがとうございます。私も同様に考えたことがあります。大阪の博物館も屋外展示でしたよね。満鉄のパシナも日本の友好団体のツアーのために復元し走らせましたが、C53も同じようなことだったのでしょうし、パシナもその後野ざらし→博物館行きと同じようなことになりました。C53の復元にあたっては、弁装置の調整にかなり難儀したことを知っています。おそらく技術者が申し送りできないようなことがいっぱい合ったのでしょうね。ですから今回限りでお終いになったのだと思っています。動画でわかると思いますが、ボイラーの下などはサビサビでこれはもうダメだなと思いました。
戦前の日本に関しては・冶金等の基礎工業力が低い・化学工業が未発達なため石油関連製品(揮発油・潤滑油etc.)の精製度が低い・産出される石炭の質があまり良くなくエネルギー効率が悪いこうした土壌があるため・設計そのものが抱える問題・構造材の質の問題等の基礎工業力の問題・工作機械の不足や工員の教育といった生産性の問題・燃料や潤滑油等の消費財の質の問題・機器の運用のマニュアルの不備などの人的な課題こうした様々な問題が複合的に絡んでしまいどこまでが「設計上の問題」になるか判別が非常に難しい面がありますね(これは船舶や航空機も同様)また「日本は資源に乏しい」ということを意識して軽量化や低燃費を志向する傾向が鉄道に限らず非常に強かったという特徴もあります(そのため耐久性や発展性は不足しがち)こうした「戦前の日本の国情や国策」というものが抱える弱点が高い精度や強度を必要とする工業製品の場合には複合的に悪い方向に作用する…C53はそうした事象を分かりやすく体現した工業製品の一つなのかな?という気はしますね長々と失礼いたしましたm(._.)m
ご視聴頂きありがとうございます。私の言いたいことを論理的に正確にまとめて頂いたみたいです。その通りなんですよね。人・モノ・金のうちモノ・金が無いため、手抜きと言われてもおかしくないことが起きるわけです。最近、戦時中の潤滑油不足が機関車(だけではないですが)の可動率低下にものすごく影響したんだと分析しました。満鉄アジアが運行停止したのも米国からの潤滑油が枯渇したことが原因だったそうです。
@@Yukkuri-Lab さん実は誉エンジンの惨状も同じ理由後は点火プラグもズタボロで、これで国鉄は早期にガソリンエンジンに見切りつけて駆動に点火プラグがあまり関与しないディーゼルエンジンにシフトさせてますし陸軍が89式戦車の途中から戦車のエンジンをほぼほぼディーゼルエンジン一本に絞ったのも同じ理由。
当時、流線型は凄い人気で子供達が手を振って追いかけて来たそうです。(なんか、イイ光景だなぁ~。)
いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。何で子供はいつの時代でも電車や機関車好きなのでしょうねぇ。山手線から新幹線見ただけで興奮する子供たち今でもよく見ます。当時の流線形とか超特急燕なんかだったら大変だったでしょうね。
興味深い動画ありがとうございます!音から当時の疾走の様子がイメージできて楽しかったです。工業製品の設計でガタ・公差管理・熱膨張などは現代でも知識と経験が必要なところですが、戦前の工業力に官僚的なプロセスでは一度でこのグレズリー弁をモノにするのは難しかったのだな〜と思いました。他方、同メカニズムのALCOの満鉄ミカニが戦後の中国国鉄継承後までも長く運用されていたことを考えると、メンテナンスを考えた設計の重要さはとても大事そうですね。とても示唆深いお話でした……
ご視聴頂きありがとうございます。私はC53が十数年、東海道、山陽の特急を牽引し続けた実績は、性能が優れていたからだと言われる方がいますが、確かにその通りですけど、そのためにどれだけ不当に現場が苦しみ、設計者は知らん顔していたことか。おいおいそれは拙かったな!と言いたいわけです。
C53、年々重量が増す客車に対応するため理論的には牽引力が増える3シリンダーで作った旅客用機関車、ただ狭軌のレール幅にセンターシリンダーを置くのは整備性に難があるのと設計ミスもあって他の蒸気機関車に比べ短命に終わったのは国鉄の技術力の限界でしょうね。これ以後日本は蒸気機関車設計に対して保守的になり新技術導入には慎重になりました…
Mr. Yattsunさん、ご視聴頂きありがとうございます。私はC53はスタイル的にとても好きなのですけど、設計技術、製造技術的には中途半端なC52のパクリ機関車だと思っています。輸送力向上のため、そんな機関車でも大量に作り現場に押し付けて酷い事をしたなと思います。
@@Yukkuri-Lab さん、私もデザインは秀逸だと思います。当時欧米では3シリンダーが導入されてたので日本もそれに倣ってなんでしょうが日本の技術力でそれを使いこなすには時期尚早だったのかもしれません。ただ満州鉄道では3シリンダーを問題なく使用してたようなので狭軌鉄道では無理だったのかもしれません…
満鉄には天才技術者が居ました。引き揚げの時に行方不明になられているのですが。満鉄の機関車の発達を見ていると、諸外国に対して極めてオープンな姿勢で、国鉄とは違っていて興味深いです。
今日は山の日です2気筒機関車の構造上の宿命といえるハンマーブローを低減させるシステムとして、3気筒や4気筒などの多気筒機関車が多く作られましたその中でもグレズリー考案の弁装置は構成部品点数の少なさから整備性に優れた機構として注目を集めましたしかし、ハンマーブローの原因解明による機関車の設計の変更(火室の搭載位置を下げることで重心位置を下げ、その分従台車で重量を負担する)などがされるようになり、多気筒機関そのものが無意味になった歴史があります
ご支援ご視聴頂きありがとうございます。海と山を間違えました。グレズリー弁を狭軌鉄道に嵌めこむのは無理だったのでしょうね。Tornade復活の時に三気筒をそのまま装備したのですが、日本だったらニ気筒にしていることでしょう。
@@Yukkuri-Lab 日本は戦争の影響で技術継承が途絶えた時期がありますからねそういう意味では、戦争の影響をほとんど受けていないイギリスで、蒸気機関車関係の技術が継承されていったのでしょうね
Tornadeは最近の話なので、やはり新たに図面を起こして現在の生産技術や加工技術に合わせこむのが大変だった。それをみんなボランティアでやり遂げたのが凄いなと思います。米国でもいくつかそういうプロジェクトがありますね。
@@Yukkuri-Lab 日本だとSLクラスの大型移動式ボイラーの製造が禁止されていることもあって、やはり新造というのが難しいようです小型の飽和式であれば作れるようなんですが
ボイラー新製の話ではいつもそこで引っ掛かりますね。再建築不可の物件に柱一本残して家を建てるようなもので逃れられるのでしょうか?
C 53で思いつくのは、試験車輌として作られた流線型のC 53ですね。まぁ見た目かっこいい!。…んだけど運転する側にとってはボイラー室の熱量がまともに運転室に入ってきて、熱射病になりかねないほどだったそうです
ご視聴頂きありがとうございます。流線形は熱がこもるそうですね。これも運転者は我慢すればよい!と設計をつづけたのか、もしくは関心が無かったという事だと思います。
流線型が流行したのは、アメリカの大陸横断鉄道の存在です。ニューヨークセントラル鉄道の20世紀特急J3型蒸気機関車と、ペンシルバニア鉄道のブロードウェイ特急のS2型蒸気機関車。どちらも、時速160㌔㍍は、定格速度を出せるスピードで走破できる機関車です。
以前の動画で紹介したことありました。
グレズリー式三気筒は急行旅客機よりも、低速の貨物用機関車に適していたと聞いたことがあるので、アルコの8200だけでなく、同じゲージの急行旅客機である蘭印のSS1000型で実績のあった四気筒も輸入して技術の参考にしていたらC53はどうなったのかと考えてしまいます。 とある本にC53の足回りをC59の二気筒に交換し、従台車を2軸のハドソンに改造するというアイデアがありましたが、もしも実現していたら1960年代まで九州や東北方面等の亜幹線で活躍し、ヘッドマークを取り付けて20系ブルートレインを牽いていたかも知れません。 未成熟なグレズリー式三気筒を採用したことと、機関車不足の時代にもかかわらず短命に終わってしまったことで様々なIFの歴史をファンに考えさせたくなってしまうこともC53の魅力だと思います。
ご視聴頂きありがとうございます。満鉄のミカニはALCOのグレズリー弁で1980年頃まで現役だったはずです。貨物機ですからおっしゃる通りの性能だったのでしょう。グレズリー弁は英国のは新製復活したTornadeが採用し現代に登場したのですが、英国の三気筒は本当によく調教されていて、かつメインテナンスも容易とか。鉄道発祥の国はさすがです。
三気筒機関車は、重心が高くなる欠点があったはず。昔「鉄道模型趣味」て雑誌のコラムに、名古屋の方だったか、軸受け焼けの機関車の動輪主台枠に木桁をかませて、発電機からランプの電源を引いて、一斗缶の油と注油差しを持って乗り込んで無事に走らせた話がありましたね。生きた心地がなかったそうです。
ご視聴頂きありがとうございます。第三シリンダーの出力過大と金縛りの欠点については第一回の動画でやったので、今回は省きました。重心が高いのはちょっと認識ありませんでした。教えていただきありがとうございます。私は一回目の動画で言いましたが、当時の国鉄の試験でC53の油さしの整備員の話をして落ちました。
この油差しは常態化していたみたいです明るい燕はいいけど暗い時間の富士は嫌だと言う話しがあり後々マシン油でなくグリスになって楽になったそうです中ビクを焼いてはいけないと言う話しがありましたC59でも従台車は14t位の軸重で軸の綿が焼け隣の線路が夜でも見える程パッと明るくなったそうです
一番好きな蒸気機関車です。
ご視聴いただきありがとうございます。C53は嫌う理由は無いですが、使われていた時の問題や設計上の不手際の存在を知ると、考えさせられる機関車です。ちなみに私は好きなほうの機関車です。
0:55 わぁーーー!!!トーマスのお友達のモデルの機関車だぁー!カッコイイ!!
海外物をやるとさっぱり皆さんご覧になっていただけないので、最近はすっかりご無沙汰です。
引っ張られる側とすれば三気筒のC53はC59より乗り心地が良かったという話もありましたね。結局は戦争の激化もあり、運転、保守側の技術力低下が寿命を短命にしてしまったという事でしょうか。
ご視聴頂きありがとうございます。今回は番外編なので魔理沙に好き勝手に言わせました、C59は以前動画で説明したのですが、実用域の速度までの性能の確保を最優先にした設計で、時速100キロ超えると前後動激しく、かなり運転に勇気が必要だったそうですか、うまく調整されたC53はここからが本領発揮する様です。結局短命だったのは、戦前に量産化されたC59がC53をあらゆる点で優っていたため、細かな点検リソースが必要で軸重の重いC53は嫌われたから、戦後さっさと廃車されたのだと理解してます。
@@Yukkuri-Lab さん後労働組合が真っ先に廃車要求しストまでやったこともあります。
機構的なことではないですが、復活運転した時にはデフがあったのに撤去されたのが残念ですね。正面のハンドレールもボイラー側にあった方が恰好よかったのに、わざわざ煙室扉側に移設されて、撤去した跡が残っているのも残念です。
ご視聴コメント頂きありがとうございます。復活運転の時のデフ無しになったのにはいわくがありそうですね。今度梅小路でじっくり見てきたいです。
ジャンルは違えども何処となく扶桑型戦艦や初春型駆逐艦にも通ずる日本技術史の試行錯誤期の象徴の様にも思える機関車。既に手本(C52)はあるものの自力で図面も引け、世界の先端トレンドに合う機関車を作れる様にはなっていた、が冶金や工作技術の未熟を職人技的調整でどうにかしていた辺は日本陸軍の三十八年式歩兵銃等で、命中率等では高評価なれど同じ小銃間での部品の互換が無く工廠の職人のヤスリ加工に頼る等工業製品としては落第レベルだったのに近い職人依存の体制に甘えて敗戦まで行ってしまった感をC53には特に強く感じる。そういった個々の部品箱出しでの精度等の工業の足腰の弱さが色々に積み重ねての各ジャンルの戦前・戦中の失敗の一因。其れに懲りての品質管理の徹底が戦後のメイドインジャパンの快進撃の要因とも。
ご視聴頂きありがとうございます。動画でちょこっと零戦を挿入した意味は、貴殿コメントのとおりです。満鉄の開発チームは予算もあってのびのびとできたそうですが、国鉄はそうはいかなかった点があれこれ尾を引いているのですね。
中島飛行機(現在のスバル)はダグラス式工程管理を川崎航空機はパンチカード式工程管理と言うドイツ式を取り入れてます。
ミッドウエイの敗因の一つに雷爆転換が有りました97艦攻は機体ごとの爆弾懸架の寸法が違い標準化されていないため魚雷に変える時はその機のものを取り付ける必要が有ります逆もしかりです、職人の調整によりネバダは2発の80番のこれまた職人操縦士により轟沈しました、日本て恐ろしい国です
私は電気屋ですが、この時代の機械屋さんは大変だったと思います。コンピュータの無い時代に、動力関連や過重、機械強度のみならず、熱膨張や振動まで想定して手計算しないといけなかったわけですから。そらあ、作ってみないとどうなるか解りません。
みっちーさん、C53三気筒グレスリー弁はC52をリバースしコストダウンしたアプローチでその過程において、今でいう不適切な素材や部品が使われたと思います。
C53はベアリングを使っていたのですね。当時の日本にはまともなベアリングを作れる能力があるとも思えませんね・・・後に軍用機でライセンスを取ったダイムラーベンツMB601エンジンの生産に際してはやはりベアリングが悩みの種の一つでしたから。
ご視聴頂きありがとうございます。ベアリングはすべてNSKのものです。ベアリングが悪いのではなく、設計したひとの選択が悪いわけです。NSKは海軍、東洋は陸軍で両方とも国策会社みたいな感じでした。私の動画のベアリング特集でもやりましたが、SKFは当時からかなりの違いを見せていたのですね。
DB601はクランク軸の鍛造制度が出せないエチレングリコール作れない為冷却加圧する手段で逃げようとした為、あちこちから冷却水漏れと良いとこなしです、V12気筒水冷を物に出来たのはアメリカ、イギリスドイツ、イタリアだけです
個人的に随分前から思っていたことですが、C53の絶対的な問題は台枠ないの第3の車輪の代わりになる釣り合い重りの不足が原因で各所に不具合がもたらされる記述が多いようですが、海外と日本とでは軌間の問題で釣り合い重りがシングルで設置しせざる得ない問題と思います。どのような機関車が該当されるかは無知で存じないのですが、広軌以上の余裕のある台枠ではダブル以上に釣り合い重りが並列に設置されていたのか、資料も知りませんから、あくまでも想像です。安定して3連の動作があれば、ガタや摩耗も少ないのかな。そんでもって、これは自動車のマツダのロータリーエンジンのはじめのはじめなのか。私にC53の構造をずいぶん昔に教えて頂いた人の説明は、通常の蒸気機関車は、お相撲さんの張り手のように両手でドスコイドスコイ、相手を叩くと自分も体制が歪む。C53は手が3本あるお相撲さんで、間髪なく相手を押し続けられるために貼りての最中に体が歪まず、1回の張り手の力が少なくても連続して叩けるから疲れなく相手を倒すことが出来るように考えられたんだよ。インチキ臭い説明であったが、正論にも思えます。
動ご視聴頂きありがとうございます。コメントありがとうございます。錘の件ですが、クランクが一体型の時でも組立式に代わった時でも、しっかり計算して必要な重量を計算してその分の錘を後付けできたはずですね。ボルトで固定すれば良いのですから。この点は狭軌・標準軌は関係ないと思います。推測するとちゃんと計算できなかったのかもしれません。改良?型の組立クランクでも錘とされる部分がありますが、実際に不足していたのですから、それでも後付けしなかったのは、国鉄がそのような現場任せの体質だったからだろうと思ってしまうのです。
@@Yukkuri-Lab さん当時は改良するなら新設計で試せるものはなんでもやれ、そのような時代だったのでしょう。電気機関車に比べ、蒸気機関屋は何倍もの新兵器が導入され消えていったのは事実です。
なるほどです。改良はコストダウンが命題だったと思っています。鉄も資材も軍事用が最優先でしたから、鋼材の量を減らせれば良しでしょう。この辺りが緩い満鉄では思い切った設計ができたのですね。
嶋さんは軽量化にこだわった設計をするんだよな。それがなぜだかしらんけど。第三シリンダーの構造には苦労したそうだが、なおかつ及ばないほど難解な構造だったんだよね。以後一般的な2シリンダーがこくてつひょうじゅんとさだめられ、にどとけいかくされることはなかった。ですよね。
ご視聴頂きありがとうございました。グレスリー弁自体コストと軽量で最も三気筒にふさわしい仕組みと思っています。(別のグレスリー氏の動画でも言いました)国鉄の設計陣は開発においてコストでがんじがらめだった点で残念だったと思います。その中でベストを尽くした設計の機関車は多いですが、C53はかなりまずかったと思います。現場が努力すれば解決するだろうと思ったのでしょうね。日本の狭軌鉄道と技術レベルでは二気筒がベストだと気が付いたのか、判断したのか三気筒はその後計画はなかったですね。(満鉄は別ですが)
グレズリー式3シリンダーは元祖イギリスLNERでさえ故障率が非常に高く、実際A4マラード号は速度記録出した直後に壊れて動けなくなったということです。開発者のグレズリー卿が引退、亡くなった後に批判の嵐だったそうです。A3フライングスコッツマン(きかんしゃゴードンのモデル)とマラードをはじめとするA4の保存機は今でも人気らしいですが。グレズリー式は理論的には正しくても実際に採用するのは間違いであった(Wikipedia)ということです。
ご視聴頂きありがとうございます。私はグレスリー卿は好きなので動画も作りアップしています。グレズリー弁装置は好きです。この問題点は今でも議論があるようですが、グレズリー卿のほうが優勢みたいです。確かに急行旅客用ではメンテに難あるようですが、貨物機ですとALCOが使いこなしていますね。
グレズリーさんのが今は優勢!そうなんですね!ペパコーンではないのですね。Wikipediaもあてにならないかもです。ま、本来はWikipediaなんかあったらあったの状況証拠でしかないのですが。しょせんネット上ですがもうちょっと勉強してみます。
実際A4登場後もフライングスコッツマンはA3牽引だったそうです。
関節部分の耐熱性を考慮してNi合金を用いたけど、軽量化の肉抜きによる強度低下、放熱性と潤滑剤との相性の悪さで、滅茶苦茶になったって何かで読みました。
ご視聴頂きありがとうございます。満鉄アジア号が戦時中運行停止になったのは、高性能の米国製潤滑油が払拭したのが直接の原因のようです。
YSも似たような境遇ですよね。期待の新型として登場したものの現場からの評価はイマイチで(YSはパイロット連中からはあまり好かれていませんでした。)ファンからは絶大な人気があるという点が。両者の一番の違いはYSの方が圧倒的に長く使われていることですね。
ご視聴頂きありがとうございます。YS11をはじめ航空機や船舶は機関車のようにある意味いい加減なところがないですからね。破棄する理由が無いのでしょう。機関車はフルスピードで走ってもせいぜい短時間ですし、駅で停車し、坂道を惰行でき、安全マージンが緩くても何とかなるものなので、C53のようなちょっと問題の機関車が出来てくるのでしょう。
YSは設計が軍用機しか作った事がない人が多いのです、商用機は経済的で沢山の人、物を乗せて飛ぶ事が一番最初に求められる事です
やはり、戦前の日本の工業水準で、製造するのは、無理が多かったようですね。運用する現場は災難???。
ご視聴頂きありがとうございます。C53は災難だったとして、現場はC59が来たとき弁装置のめんどくさい調整とかメンテが無くなって大喜びだったろうと思います。現在もその調整のマニュアル(点検基準類はある)が無いのもそれが原因かと思っています。個別対応すぎてマニュアルにならないのでしょう。
@@Yukkuri-Lab さんと言うよりマニュアルが普及し出したのは敗戦後RTOが「軍隊帰りの素人整備士でも整備出来る様にする」為にマニュアル整備をさせたのがキッカケ。それまではマニュアルに基づくロクな教育もせず軍隊式に拳骨で強引に覚えさせるか技術は盗んで覚えろ!で放置するかだった。実際鋳鋼製台車が造られなくなったのは、重量云々より鋳鋼で台車が作れる技術者が定年退職して技術が途絶えたのが真相。実際鋳鋼台車には溶接部の金属疲労による破断と言う溶接にはつきものの弱点がなく強度的には溶接台車以上だからね。ちなみに技術は〜のくだりはサリーワイズ氏(ドリアの考案者でニューグランドホテル初代総料理長)が変えようと努力した事です。
三式戦「飛燕」呼んだ?「飛燕」もハー40がぴえん🥺と泣きたい位のダメダメエンジンだった。但し同じエンジンをイタリアは量産に成功し、品質も良かったそうです。
C53って欠陥だらけじゃないか当時鉄道省はなぜこんな手間が掛かる 機関車を製造し運用につかせていたんだただでさえ整備に手間が掛かるのに 流線形に改造したのはものすごく評判が悪く機関士からは ただでさえ熱いのに熱の逃げ場がなくよけいに熱く 整備する側からも いちいちカバーを外し終わったらまたカバーをかける手間 これだけ整備する側泣かせなカマはいないでしょうそれに鉄道省はC59やC62クラスのカマで3シリンダーと流線形を製造しようと企んでいましたが結局計画だけで終わりました
いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。戦前の国鉄の組織で背伸びした設計をするとこういうものができるという良い例です。日本軍の戦闘機も同じではないでしょうか?その反動が戦後の国鉄の左傾化だったり、ダメになった遠因かもしれないなと思っています。グレズリー弁は狭軌の日本と技術では結局無理だったんですね。
@@Yukkuri-Lab さん横から失礼いたしますそこらに関しては国鉄のみならず戦前の日本が「技術系の人的リソースがかなり不足していた」ことも一因なのかな?と思います私事になりますが私の血縁に新潟在住のジイサマがいるのですが戦時中に新潟から広島の海軍系の工場に動員されたとのこと「なんでわざわざ遠路はるばる新潟から広島まで引っ張り出すのか?」という話なのですがどうやら鉄道好きにはお馴染みの新潟鐵工所で転換生産する段階になった時に備えて…という目論見があったようですね(あくまでジイサマの話した内容なので話半分ですが…)実際には転換生産までには至らず終戦になったようですが当時15歳くらいの工業系旧制中学の『コドモ』を「工業学校の生徒なら最低限の技術系知識はあるから転換生産の先行要員にしよう」というのは戦争で人手が極端に足りない…というのを踏まえても「初級~中堅クラスのエンジニアの人的資源が元々あまりにも少ない」ことを示していると思われます(実際15歳くらいの学生が転換生産にどれだけ役に立ったかはあまりにも未知数ですしね)こうした「中間層のエンジニアの不足」が設計や試作を担当するごく一部のエリート技術者と実際に現場で取り扱う作業者との橋渡しや穴埋めの役割を果たすべき存在の不足を呼び「理屈は立派だが実用性が非常に低い」ケースや「現場での改修が各地でバラバラで体系的なフィードバックが設計や試作の部門になされない」というような一種の『断裂』を生んでしまったのではないか?という気もしますねまたまた長話になり申し訳ありません(^-^;
@@ふわふわ青花火 さん更に中堅層の技術者をどんどん徴兵してもっこ担ぎや人間ミサイルにしてましたからね。
もし日本がイギリスのトルネードみたいに新しくSL造ったら,3シリンダーを使いこなせるかもしれないですね!あとc53って言う3シリンダー機が日本に1台残っているのは奇跡ですね!
ご視聴頂きありがとうございます。日本では図面を描けるエンジニアがいないでしょうから、英国に依頼して日本で組み立てすることはできるでしょう。せっかくなので、三島ー静岡間の新幹線軌道で走れる蒸気にして欲しいですね。荒唐無稽でしょうがバブルの時、オリエントエキスプレスを持ってきてD 51に牽引させたのですから、やる気があればできますよね。でも誰もやらないでしょうけど。
@@Yukkuri-Lab しかし今は日本の在来線も高速化しているので,110km以上走れるSL造っても問題ないと思いますよ!それに同じ1067mmの鉄道の国の南アフリカ(南アフリカ国鉄レッドデビル)やインドネシア(インドネシア国鉄C53)とかが100km以上走れる蒸気機関車を保有していたので!
ご存知でしたら申し訳ないですが、現在サイト日本には2機の3シリンダーがあります
@@狭山-m5n C53形45号機と成田ゆめ牧場の9号機関車ですね!
@@undead460 よくご存知で!生でスリーシリンダーを見聞きできたのはほんと幸せでした。
今日山の日では?
ご視聴頂きありがとうございます。本当ですね!海と山を入れ違えてました。
とにかく現場泣かせ且つ災厄車輌として蛇蠍の如く忌み嫌われてデビューして僅か20年余で引退を余儀なくされた黒歴史機関車
さすらいのアルバトロス さん、いつもご視聴いただきありがとうございます。私はいつも批判的にC53を述べるのですが、反論される方々のご説明ももっともなことで、根強いファンやこの技術への理解は根強いんだなぁと思ってます。
C53と言えば43号機だなぁ(C55と言えば20〜40号機かなぁ)、無骨さとシャ-プさを兼ね備えてる感じがして大好きだよ
ご視聴頂きありがとうございます。43号機は流線形ですね。私はノーマルのが好きです。技術的に意味の少ないフィーチャーってちょっと苦手なんですね。
無骨さとシャ-プさが共存してるってのが好きだったりも(70・80系なんかも)
私は鉄道は個人的には格好いいのが好きなのですが、ED42だけはあれは見ていて恐怖でした。今でもあの轟音と悲鳴のような騒音は思い出します。怖かったです。
あのサウンドを味わってみたかったよ〜、羨ましい〜
C53は最高140kmを出したという非公式の記録がある。機関士が招集のため自暴自棄になって思い切り飛ばしたらしいが
SKTさん、ご視聴頂きありがとうございます。その話どこかで聞いたことありました。動輪径からは可能な速度ですよね。でも客車がぶっ壊れそうですね。
129kmを出したC6217もまだ余裕があったとの事、鉄橋の上だしさぞ怖かっただろう。他のC62だとどうだったか、宮原のエースの29番機は、不調機の2番機なら?場所の関係で名古屋のカマが選ばれたのだろうが
SKTさん、17号は単機でしたね。当時の旧型客車は95km/hが限度だったようでしたが、それ以上になるとどうなるのか興味あります。
否昨今の軽自動車は三気筒でないとお話にならないのと同じ話なんで昭和の時代は四気筒の方が高級で通用してたけどさ
ご視聴頂きありがとうございました。軽のエンジンは三気筒でサプライヤーチェーンが出来上がってきるのでぃまさら4気筒はあり得ないですね。早晩BEVになるでしょうけど。
島秀雄失敗伝説その1ですね。
ご視聴頂き有難うございました。島秀雄のことは批判したり、持ち上げたりしていますが、日本の少ないリソースの中で良く頑張ってくれたとはおもってぃす。
@@Yukkuri-Lab さん島秀雄は大型機関車の設計はまるでダメと言う典型的日本人技術者ですが小型機C11の設計(これも当初企画していた「大阪ー京都、大阪ー神戸と言った近い距離にある大都市間を結ぶ快速列車運行」と言うドイツ「ヘンシェルヴェーグマン」の日本版的な運行からは早期に撤退してますが、これは島秀雄の設計ミスではなく当該区間が京阪や阪急などとの競争を抱えて早期に電化された為で、皮肉にもこの結果地方路線に転用された事がC11の名声と島秀雄の高評価、「汎用性を持たせる」成功体験が三河島事故で露呈した「D51の致命的な欠陥」を招いたのですが)と何より自分には大型機関車の設計能力がまるで無く、なんちゃって先進国日本の盛りまくった工業力ではその量産も無理と割り切って電車の将来性を見抜いて自分の設計能力の無さを逆に活かしてその改良をプロデュースした事と、親子二代持っていた「スモールエンジンポリシー」を戦争後綺麗さっぱり破棄して「ラージエンジンポリシー」のC62を生み出した柔軟性とは評価すべきでもし三河島事故で自分が作った鉄道友の会から追放される悲劇が無かったら日本の鉄道趣味はもう少し大人の趣味になってクズ鉄集団が運行妨害したりキチガイマニアがどうでもいい知識をドヤ顔で自慢しまくる異常事態は避けられたのかも知れませんね。ちなみに糸川英夫技師は島秀雄の人身掌握術を見抜いた事と同じ技師として同情したこともあり国鉄と鉄道友の会からダブル追放された島秀雄に全く畑違いのロケット開発を任せてます。
とても興味深いお話ありがとうございます。
戦前のエース
佐藤宏さん、ご視聴いただきありがとうございます。動画では文句を言っていますが、形は好きな機関車です。
全部ワルシャート式にすべきだったと思うんだけどなあ
ご視聴頂きありがとうございます。グレズリー弁のメリットは軽量であることと、コストが安いことです。英国は3気筒どちらもありますが、急行旅客用としてはワルシャートなのかなと思います。
ユーザー支点
どこかで視点を書き間違えていましたでしょうか?
@@Yukkuri-Lab はい。
支点と書き間違えていました。誤字見つけていただきありがとうございました。さらに誤字・脱字無いように注意いたします。
うぽつっすあの…みんなC53嫌いなの…?
ご視聴頂きありがとうございます。私は大好きです。一度音を聞いてみたいです。機関車に罪はないですが、設計した人とその組織が拙かったと思っています。
@@Yukkuri-Lab 島秀雄さん…まぁ3気筒の知識も経験も皆無だから仕方ないっちゃ仕方ないですけど…みんなC53に冷たすぎない…?
梅小路も大宮もC53に関心が薄れているのはよくわかっています。鉄道のプロがそのくらいですから一般の人の関心もほぼないのでしょうね。C53は見たこともない人が99%で、写真も少ないですから仕方ないですね。
@@Yukkuri-Lab 4月に京都に行った時に初めて見ましたがあれも性能はともかく魅力的な機関車だと思うんですけどねぇ…
スタイルは最高です。スタイルは大好きです。
C53の生い立ち又構造など今まで知らなかった事ばかりで大変勉強になりました。C53の映像ドラフト音は鉄道記録映画の鐵道信號をRUclipsで何回も見ました。数台の現役C53が登場するので好きな動画の1つです。
ご支援ご視聴頂きありがとうございます。あのキングレコードですがかなり当時話題になっていました。でも英国の3気筒の音(今回収録している中の)と聞き比べると位相がずれているように思うのですが、正しいC53のドラフト音を言い当ててくれる方ってもういらっしゃらないと思いますが、どうなんでしょうか?
実際の運用は別にして、形態的スマートさは戦前の美意識を表現していて美しい。完成時の戦艦長門に一脈通じる直線と曲線の調和を感じます。
ご視聴頂きありがとうございます。戦前の美意識。この視点の探求は良いヒントをいただきました。ありがとうございます。
C52からグレスリー弁装置のためのカバー、エプロンをつけたことが、C53のスタイルを決定しましたね。
C53デザイン的には綺麗な機関車でしたが当時の🆕流線型ブームも有りカバーを取り付けられたのが強いインパクトを与えましたね❗
流線型も期待以上の効果もあげられず🔧メンテナンス製の悪さも手伝い元の姿に戻され🆕流線型の活躍も短命に終わり🌠後のC57などに活躍の場を譲る形に成りましたね😵
ご視聴頂きありがとうございます。流線形自体はC55を含めあまり興味ないのですが、C53のメカニズムにはとても惹かれます。特に英国で3気筒の活躍を目の当たりにし、なんで日本では失敗したのだろうということがC53への関心の始まりでした。
こんばんは。まさかのお中元をいただいた気分で嬉しかったです。
3シリンダーの音を低速再生すると本当にワルツだな~とか、給水温め器はまさかの前輪の前!とか、今回も知らなかったことが沢山ありました。
そしてグレズリー式弁装置の模型、魔理沙に言われてみると「むしろこんなんでよく動いていたなあC53」と。真夏の納涼ホラーですね・・・。
それでも、少なくとも45号機1両が残って、眺めながら考えることができるのは有難いことだと思います。
ご視聴頂きありがとうございます。週中に製作したのは今日が旗日だったこと、旧型客車がスカを引いたこと、アンケートでC53落選続きで可哀想になったからです。
梅小路は確か以前には第三シリンダーの下に鏡があってよく観察できたのですが、今は取り払われていますね。大宮の模型もこの動画のあり様です。時代が経ちすぎて検証したり興味を示す対象から外れてきたんだなぁと思っています。梅小路の構想を聞いた時にはC53やC51が動態で見れると、かなり興奮したものでした。
C53を始めて知ったのは模型屋さんのショーケースでした。
他の国産蒸気機関車とは違ったスタイルがとても魅力的で、3気筒と聞いてもピンと来なかったのですが
NHKラジオの音楽番組で3気筒蒸気機関車のドラフト音を紹介した事が切っ掛けで関心を持ちました。
紹介された機関車は等間隔で動作するタイプでは無く、”何回転かすると1拍重なる”と
パーソナリティが説明していて、独特のブラスト音がとてもユニークだったのを今も覚えております。
番組の締めはオネッゲルのパシフィック231でした。
ご視聴頂きありがとうございます。私は2回ともC53を批判していますが、形態的には大好きな機関車の部類です。(両極の片側ではタンクのあれが一番下)
動画の音だけ聞いて!の機関車はA3のグレスリー弁の三気筒です。ですから動画の後で挿入した他の方のRUclips動画のC52の音と比べていただくと、何かC52が調律がずれているんじゃ無いのかな?と思ったわけです。ドラフト音ですから三気筒の機構上のバランスとは違うかとも思いますが、あれが正しい音なのかとても知りたいです。そうであればかなり音でも魅力ありますね。
C53のドラフト音を初めて聴いたのは、父が持っていたレコードでした
3シリンダーのリズミカルな加速音、高速時の連続音にワクワクしたのを覚えています
構造的に問題が沢山あった様ですが、個人的には好きなカマの一つです。
ご視聴頂きありがとうございます。私はいつもC53を悪く言っていますが、かなり大好きな機関車です。機関車には責任ないし設計者が拙かったです。
本当だ3シリンダー車はドラフト音も「シャカショコショコシャカショコショコ」と3拍子で鳴ってますね。
失敗作と言ってしまえばそれまでだけど、このC53からC55にかけての試行錯誤があったからこそC57やC59という傑作機が生まれたのだと思います。
himatsさん、ご視聴頂きましてありがとうございます。
おっしゃる通り、反面教師になりましたね。日本の技術と狭軌鉄道では3シリンダーは無理だということを理解した訳です。2シリンダーでC53を上回る性能を出すことを目標に開発されたC59ですが、鉄道ファンの間ではあまり人気なくて残念です。私がJNRの機関車の中で最も好きなんですけど、あまり話題になりません。
C53形の場合、客車が木製から鋼製に変わって列車が重くなった事でスピードダウンをせずに牽引力を向上させる為、当時の欧米の流行に乗って3シリンダー機関車になりましたが、動画の内容通りの理由と、運転の調整が難しい事もあって短命に終わってしまった訳ですが、スタイルが今までのイギリス🇬🇧風の曲線的デザインからドイツ🇩🇪風の直線的デザインに切り替えられた事で今後の機関車のデザインにも影響を与えた事は間違いないでしょう。
京都鉄道博物館になる前の梅小路蒸気機関車館に行った事がありますが、貴重な保存機が綺麗な状態で残っているのはありがたいですね。
動画で野良SLから一転してレストア作業決定になったC56 135が出てきたのも良かったです。
ご視聴頂きありがとうございます。C53落選しまくりで可哀想で動画作りました。私はスタイルはとても好きで、好き・嫌いで言えば好きが大きく上回ります。単にレアとか見たことがないからでは無くてその奇抜なスタイルです。
学生時代にOB職員から見せてもらった国鉄の戦前と思われる(D51が新型機関車とあった為)整備、技術取扱い書物でスポーク動輪が凄く歪んでねじれてしまった写真を見たいことあるのですが、長年C51だと思い込んでいたけど、動画見ていたらもしかしたらC53だったのかもしれない……(写真は機関車から外された状態でした)
C55では補強リブの「水かき」スポークに強化したのが美しかったです。
kaedeさん、ご視聴頂きありがとうございます。C51はスポークはかなり問題だったので、C51では無いでしょうか。改良型のC54は1本スポークを増やしていますし。動輪の美しさではC55よりC54の方が繊細に見えて綺麗です。
再度投稿します。C53は戦時中に酷使されて戦後は至るところで放置されて解体待ちの状態に。例えば2シリンダーに改造するという案は無かったのか?動輪のクランクが違うので90度のに交換しないといけないが。軸重がどうなるか全体の重量バランスなど問題は色々あると思うが
SKTさん、ご視聴頂きありがとうございました。
そうですね、2気筒考えられますね。
私は、このような形になるのだったら、C52のアルコの輸入機でよかったんじゃないのと思っています。C53ほど強力ではないでしょうが、C51よりは良いかなと。適当なこと言ってすみません。
同じ走行区間を同じ負荷条件でC53とC59に比較牽引させたら
水と石炭の消費量はC59の方が少なかったという記事を見ました
これでC59への置き換えは決定しC62の登場で廃車が加速された
梅小路のC5345、再び走行する姿を見たいと思ってますが
現地の整備担当の方に質問したら一言
僕らには無理です出来ませんと言われました
1961年に復活した時、鷹取工場には難しいシリンダーの調整を出来る人が居たのでしょうね。
ご視聴頂きありがとうございます。同じ記事をどこかで見た記憶があります。昭和36年の復活運転ではまだ調整できる職員が残っていたわけで、それでもかなり難儀だったと聞いています。
ですからC53のグレスリー弁はマニュアル通りに調整できない代物であり、それが加工精度の問題や部品の強度だったり、個体差での問題だったのでしょうね。ですからC53のコンセプトは素晴らしいですが、設計含め現場が追いついていなかったわけです。グレスリー弁自体の機関車は外国ではしっかり今でも活躍していますから、適切に作られれば素晴らしい構造だと思います。(大宮の模型も調整できる人がいないのでしょうね?)
戦前は各区に名人がいたそうです
更に特急、急行担当区は一等缶の23.33.47などテンダーに増炭板を取り付けた独特のスタイルで専用の練炭を焚き機関士も判任官の方が運転していたそうです
現在梅小路に保存されているC53 45号機も廃車後は国鉄吹田工場敷地内の目立たない片隅に雨ざらしで放置され、そのままでは朽ち果ててしまうのを待つだけ状態だったのを鉄道開通90周年の記念として完全レストアさせ自力走行可能な状態に復元させた…というものだったらしいですね。もし、その前に邪魔者扱いされ解体されていたらC54などとともにもうこの世に1両も存在していない幻の機関車となっていたのでしょう。
復活後は弁天町にあった交通科学博物館に静態保存として展示され後に梅小路蒸気機関車館オープン時に梅小路に移され静態保存が続いていますが、それなら復元後は梅小路機関区か吹田機関区預かりとして技術を継承させておけばよかったのでは、と思ったりもしましたが。
ご視聴頂きありがとうございます。私も同様に考えたことがあります。大阪の博物館も屋外展示でしたよね。
満鉄のパシナも日本の友好団体のツアーのために復元し走らせましたが、C53も同じようなことだったのでしょうし、パシナもその後野ざらし→博物館行きと同じようなことになりました。
C53の復元にあたっては、弁装置の調整にかなり難儀したことを知っています。おそらく技術者が申し送りできないようなことがいっぱい合ったのでしょうね。ですから今回限りでお終いになったのだと思っています。動画でわかると思いますが、ボイラーの下などはサビサビでこれはもうダメだなと思いました。
戦前の日本に関しては
・冶金等の基礎工業力が低い
・化学工業が未発達なため石油関連製品(揮発油・潤滑油etc.)の精製度が低い
・産出される石炭の質があまり良くなくエネルギー効率が悪い
こうした土壌があるため
・設計そのものが抱える問題
・構造材の質の問題等の基礎工業力の問題
・工作機械の不足や工員の教育といった生産性の問題
・燃料や潤滑油等の消費財の質の問題
・機器の運用のマニュアルの不備などの人的な課題
こうした様々な問題が複合的に絡んでしまい
どこまでが「設計上の問題」になるか判別が非常に難しい面がありますね
(これは船舶や航空機も同様)
また「日本は資源に乏しい」ということを意識して
軽量化や低燃費を志向する傾向が鉄道に限らず非常に強かったという特徴もあります
(そのため耐久性や発展性は不足しがち)
こうした「戦前の日本の国情や国策」というものが抱える弱点が
高い精度や強度を必要とする工業製品の場合には複合的に悪い方向に作用する…
C53はそうした事象を分かりやすく体現した工業製品の一つなのかな?という気はしますね
長々と失礼いたしましたm(._.)m
ご視聴頂きありがとうございます。私の言いたいことを論理的に正確にまとめて頂いたみたいです。その通りなんですよね。人・モノ・金のうちモノ・金が無いため、手抜きと言われてもおかしくないことが起きるわけです。
最近、戦時中の潤滑油不足が機関車(だけではないですが)の可動率低下にものすごく影響したんだと分析しました。満鉄アジアが運行停止したのも米国からの潤滑油が枯渇したことが原因だったそうです。
@@Yukkuri-Lab さん
実は誉エンジンの惨状も同じ理由
後は点火プラグもズタボロで、これで国鉄は早期にガソリンエンジンに見切りつけて駆動に点火プラグがあまり関与しないディーゼルエンジンにシフトさせてますし
陸軍が89式戦車の途中から戦車のエンジンをほぼほぼディーゼルエンジン一本に絞ったのも同じ理由。
当時、流線型は凄い人気で子供達が手を振って追いかけて来たそうです。
(なんか、イイ光景だなぁ~。)
いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。何で子供はいつの時代でも電車や機関車好きなのでしょうねぇ。山手線から新幹線見ただけで興奮する子供たち今でもよく見ます。
当時の流線形とか超特急燕なんかだったら大変だったでしょうね。
興味深い動画ありがとうございます!音から当時の疾走の様子がイメージできて楽しかったです。
工業製品の設計でガタ・公差管理・熱膨張などは現代でも知識と経験が必要なところですが、戦前の工業力に官僚的なプロセスでは
一度でこのグレズリー弁をモノにするのは難しかったのだな〜と思いました。
他方、同メカニズムのALCOの満鉄ミカニが戦後の中国国鉄継承後までも長く運用されていたことを考えると、メンテナンスを考えた設計の重要さはとても大事そうですね。とても示唆深いお話でした……
ご視聴頂きありがとうございます。
私はC53が十数年、東海道、山陽の特急を牽引し続けた実績は、性能が優れていたからだと言われる方がいますが、確かにその通りですけど、そのためにどれだけ不当に現場が苦しみ、設計者は知らん顔していたことか。おいおいそれは拙かったな!と言いたいわけです。
C53、年々重量が増す客車に対応するため理論的には牽引力が増える3シリンダーで作った旅客用機関車、ただ狭軌のレール幅にセンターシリンダーを置くのは整備性に難があるのと設計ミスもあって他の蒸気機関車に比べ短命に終わったのは国鉄の技術力の限界でしょうね。これ以後日本は蒸気機関車設計に対して保守的になり新技術導入には慎重になりました…
Mr. Yattsunさん、ご視聴頂きありがとうございます。私はC53はスタイル的にとても好きなのですけど、設計技術、製造技術的には中途半端なC52のパクリ機関車だと思っています。輸送力向上のため、そんな機関車でも大量に作り現場に押し付けて酷い事をしたなと思います。
@@Yukkuri-Lab さん、私もデザインは秀逸だと思います。当時欧米では3シリンダーが導入されてたので日本もそれに倣ってなんでしょうが日本の技術力でそれを使いこなすには時期尚早だったのかもしれません。ただ満州鉄道では3シリンダーを問題なく使用してたようなので狭軌鉄道では無理だったのかもしれません…
満鉄には天才技術者が居ました。引き揚げの時に行方不明になられているのですが。満鉄の機関車の発達を見ていると、諸外国に対して極めてオープンな姿勢で、国鉄とは違っていて興味深いです。
今日は山の日です
2気筒機関車の構造上の宿命といえるハンマーブローを低減させるシステムとして、3気筒や4気筒などの多気筒機関車が多く作られました
その中でもグレズリー考案の弁装置は構成部品点数の少なさから整備性に優れた機構として注目を集めました
しかし、ハンマーブローの原因解明による機関車の設計の変更(火室の搭載位置を下げることで重心位置を下げ、その分従台車で重量を負担する)などがされるようになり、多気筒機関そのものが無意味になった歴史があります
ご支援ご視聴頂きありがとうございます。海と山を間違えました。
グレズリー弁を狭軌鉄道に嵌めこむのは無理だったのでしょうね。
Tornade復活の時に三気筒をそのまま装備したのですが、日本だったらニ気筒にしていることでしょう。
@@Yukkuri-Lab 日本は戦争の影響で技術継承が途絶えた時期がありますからね
そういう意味では、戦争の影響をほとんど受けていないイギリスで、蒸気機関車関係の技術が継承されていったのでしょうね
Tornadeは最近の話なので、やはり新たに図面を起こして現在の生産技術や加工技術に合わせこむのが大変だった。それをみんなボランティアでやり遂げたのが凄いなと思います。米国でもいくつかそういうプロジェクトがありますね。
@@Yukkuri-Lab 日本だとSLクラスの大型移動式ボイラーの製造が禁止されていることもあって、やはり新造というのが難しいようです
小型の飽和式であれば作れるようなんですが
ボイラー新製の話ではいつもそこで引っ掛かりますね。再建築不可の物件に柱一本残して家を建てるようなもので逃れられるのでしょうか?
C 53で思いつくのは、試験車輌として作られた流線型のC 53ですね。まぁ見た目かっこいい!。…んだけど運転する側にとってはボイラー室の熱量がまともに運転室に入ってきて、熱射病になりかねないほどだったそうです
ご視聴頂きありがとうございます。流線形は熱がこもるそうですね。これも運転者は我慢すればよい!と設計をつづけたのか、もしくは関心が無かったという事だと思います。
流線型が流行したのは、アメリカの大陸横断鉄道の存在です。ニューヨークセントラル鉄道の20世紀特急J3型蒸気機関車と、ペンシルバニア鉄道のブロードウェイ特急のS2型蒸気機関車。どちらも、時速160㌔㍍は、定格速度を出せるスピードで走破できる機関車です。
以前の動画で紹介したことありました。
グレズリー式三気筒は急行旅客機よりも、低速の貨物用機関車に適していたと聞いたことがあるので、アルコの8200だけでなく、同じゲージの急行旅客機である蘭印のSS1000型で実績のあった四気筒も輸入して技術の参考にしていたらC53はどうなったのかと考えてしまいます。
とある本にC53の足回りをC59の二気筒に交換し、従台車を2軸のハドソンに改造するというアイデアがありましたが、もしも実現していたら1960年代まで九州や東北方面等の亜幹線で活躍し、ヘッドマークを取り付けて20系ブルートレインを牽いていたかも知れません。
未成熟なグレズリー式三気筒を採用したことと、機関車不足の時代にもかかわらず短命に終わってしまったことで様々なIFの歴史をファンに考えさせたくなってしまうこともC53の魅力だと思います。
ご視聴頂きありがとうございます。満鉄のミカニはALCOのグレズリー弁で1980年頃まで現役だったはずです。貨物機ですからおっしゃる通りの性能だったのでしょう。
グレズリー弁は英国のは新製復活したTornadeが採用し現代に登場したのですが、英国の三気筒は本当によく調教されていて、かつメインテナンスも容易とか。鉄道発祥の国はさすがです。
三気筒機関車は、重心が高くなる欠点があったはず。
昔「鉄道模型趣味」て雑誌のコラムに、名古屋の方だったか、軸受け焼けの機関車の動輪主台枠に木桁をかませて、発電機からランプの電源を引いて、一斗缶の油と注油差しを持って乗り込んで無事に走らせた話がありましたね。
生きた心地がなかったそうです。
ご視聴頂きありがとうございます。第三シリンダーの出力過大と金縛りの欠点については第一回の動画でやったので、今回は省きました。重心が高いのはちょっと認識ありませんでした。教えていただきありがとうございます。
私は一回目の動画で言いましたが、当時の国鉄の試験でC53の油さしの整備員の話をして落ちました。
この油差しは常態化していたみたいです
明るい燕はいいけど暗い時間の富士は嫌だと言う話しがあり後々マシン油でなくグリスになって楽になったそうです
中ビクを焼いてはいけないと言う話しがありました
C59でも従台車は14t位の軸重で軸の綿が焼け隣の線路が夜でも見える程パッと明るくなったそうです
一番好きな蒸気機関車です。
ご視聴いただきありがとうございます。
C53は嫌う理由は無いですが、使われていた時の問題や設計上の不手際の存在を知ると、考えさせられる機関車です。
ちなみに私は好きなほうの機関車です。
0:55 わぁーーー!!!トーマスのお友達のモデルの機関車だぁー!カッコイイ!!
海外物をやるとさっぱり皆さんご覧になっていただけないので、最近はすっかりご無沙汰です。
引っ張られる側とすれば三気筒のC53はC59より乗り心地が良かったという話もありましたね。
結局は戦争の激化もあり、運転、保守側の技術力低下が寿命を短命にしてしまったという事でしょうか。
ご視聴頂きありがとうございます。今回は番外編なので魔理沙に好き勝手に言わせました、C59は以前動画で説明したのですが、実用域の速度までの性能の確保を最優先にした設計で、時速100キロ超えると前後動激しく、かなり運転に勇気が必要だったそうですか、うまく調整されたC53はここからが本領発揮する様です。
結局短命だったのは、戦前に量産化されたC59がC53をあらゆる点で優っていたため、細かな点検リソースが必要で軸重の重いC53は嫌われたから、戦後さっさと廃車されたのだと理解してます。
@@Yukkuri-Lab さん
後労働組合が真っ先に廃車要求し
ストまでやったこともあります。
機構的なことではないですが、復活運転した時にはデフがあったのに撤去されたのが残念ですね。正面のハンドレールもボイラー側にあった方が恰好よかったのに、わざわざ煙室扉側に移設されて、撤去した跡が残っているのも残念です。
ご視聴コメント頂きありがとうございます。復活運転の時のデフ無しになったのにはいわくがありそうですね。
今度梅小路でじっくり見てきたいです。
ジャンルは違えども何処となく扶桑型戦艦や初春型駆逐艦にも通ずる日本技術史の試行錯誤期の象徴の様にも思える機関車。
既に手本(C52)はあるものの自力で図面も引け、世界の先端トレンドに合う機関車を作れる様にはなっていた、が冶金や工作技術の未熟を職人技的調整でどうにかしていた辺は日本陸軍の三十八年式歩兵銃等で、命中率等では高評価なれど同じ小銃間での部品の互換が無く工廠の職人のヤスリ加工に頼る等工業製品としては落第レベルだったのに近い職人依存の体制に甘えて敗戦まで行ってしまった感をC53には特に強く感じる。
そういった個々の部品箱出しでの精度等の工業の足腰の弱さが色々に積み重ねての各ジャンルの戦前・戦中の失敗の一因。
其れに懲りての品質管理の徹底が戦後のメイドインジャパンの快進撃の要因とも。
ご視聴頂きありがとうございます。動画でちょこっと零戦を挿入した意味は、貴殿コメントのとおりです。
満鉄の開発チームは予算もあってのびのびとできたそうですが、国鉄はそうはいかなかった点があれこれ尾を引いているのですね。
中島飛行機(現在のスバル)はダグラス式工程管理を
川崎航空機はパンチカード式工程管理と言うドイツ式を
取り入れてます。
ミッドウエイの敗因の一つに雷爆転換が有りました97艦攻は機体ごとの爆弾懸架の寸法が違い標準化されていないため魚雷に変える時はその機のものを取り付ける必要が有ります逆もしかりです、職人の調整によりネバダは2発の80番のこれまた職人操縦士により轟沈しました、日本て恐ろしい国です
私は電気屋ですが、この時代の機械屋さんは大変だったと思います。コンピュータの無い時代に、動力関連や過重、機械強度のみならず、熱膨張や振動まで想定して手計算しないといけなかったわけですから。そらあ、作ってみないとどうなるか解りません。
みっちーさん、C53三気筒グレスリー弁はC52をリバースしコストダウンしたアプローチでその過程において、今でいう不適切な素材や部品が使われたと思います。
C53はベアリングを使っていたのですね。
当時の日本にはまともなベアリングを作れる能力があるとも思えませんね・・・
後に軍用機でライセンスを取ったダイムラーベンツMB601エンジンの生産に際してはやはりベアリングが悩みの種の一つでしたから。
ご視聴頂きありがとうございます。ベアリングはすべてNSKのものです。ベアリングが悪いのではなく、設計したひとの選択が悪いわけです。NSKは海軍、東洋は陸軍で両方とも国策会社みたいな感じでした。私の動画のベアリング特集でもやりましたが、SKFは当時からかなりの違いを見せていたのですね。
DB601はクランク軸の鍛造制度が出せないエチレングリコール作れない為冷却加圧する手段で逃げようとした為、あちこちから冷却水漏れと良いとこなしです、V12気筒水冷を物に出来たのはアメリカ、イギリスドイツ、イタリアだけです
個人的に随分前から思っていたことですが、
C53の絶対的な問題は台枠ないの第3の車輪の代わりになる釣り合い重りの不足が原因で各所に不具合がもたらされる記述が多いようですが、海外と日本とでは軌間の問題で釣り合い重りがシングルで設置しせざる得ない問題と思います。
どのような機関車が該当されるかは無知で存じないのですが、広軌以上の余裕のある台枠ではダブル以上に釣り合い重りが並列に設置されていたのか、資料も知りませんから、あくまでも想像です。
安定して3連の動作があれば、ガタや摩耗も少ないのかな。
そんでもって、これは自動車のマツダのロータリーエンジンのはじめのはじめなのか。
私にC53の構造をずいぶん昔に教えて頂いた人の説明は、
通常の蒸気機関車は、お相撲さんの張り手のように両手でドスコイドスコイ、
相手を叩くと自分も体制が歪む。
C53は手が3本あるお相撲さんで、間髪なく相手を押し続けられるために貼りての最中に体が歪まず、
1回の張り手の力が少なくても連続して叩けるから疲れなく相手を倒すことが出来るように考えられたんだよ。
インチキ臭い説明であったが、正論にも思えます。
動ご視聴頂きありがとうございます。コメントありがとうございます。錘の件ですが、クランクが一体型の時でも組立式に代わった時でも、しっかり計算して必要な重量を計算してその分の錘を後付けできたはずですね。ボルトで固定すれば良いのですから。この点は狭軌・標準軌は関係ないと思います。推測するとちゃんと計算できなかったのかもしれません。改良?型の組立クランクでも錘とされる部分がありますが、実際に不足していたのですから、それでも後付けしなかったのは、国鉄がそのような現場任せの体質だったからだろうと思ってしまうのです。
@@Yukkuri-Lab さん
当時は改良するなら新設計で試せるものはなんでもやれ、
そのような時代だったのでしょう。
電気機関車に比べ、蒸気機関屋は何倍もの新兵器が導入され消えていったのは事実です。
なるほどです。改良はコストダウンが命題だったと思っています。鉄も資材も軍事用が最優先でしたから、鋼材の量を減らせれば良しでしょう。この辺りが緩い満鉄では思い切った設計ができたのですね。
嶋さんは軽量化にこだわった設計をするんだよな。それがなぜだかしらんけど。第三シリンダーの構造には苦労したそうだが、なおかつ及ばないほど難解な構造だったんだよね。以後一般的な2シリンダーがこくてつひょうじゅんとさだめられ、にどとけいかくされることはなかった。ですよね。
ご視聴頂きありがとうございました。グレスリー弁自体コストと軽量で最も三気筒にふさわしい仕組みと思っています。(別のグレスリー氏の動画でも言いました)
国鉄の設計陣は開発においてコストでがんじがらめだった点で残念だったと思います。その中でベストを尽くした設計の機関車は多いですが、C53はかなりまずかったと思います。現場が努力すれば解決するだろうと思ったのでしょうね。
日本の狭軌鉄道と技術レベルでは二気筒がベストだと気が付いたのか、判断したのか三気筒はその後計画はなかったですね。(満鉄は別ですが)
グレズリー式3シリンダーは元祖イギリスLNERでさえ故障率が非常に高く、実際A4マラード号は速度記録出した直後に壊れて動けなくなったということです。開発者のグレズリー卿が引退、亡くなった後に批判の嵐だったそうです。A3フライングスコッツマン(きかんしゃゴードンのモデル)とマラードをはじめとするA4の保存機は今でも人気らしいですが。グレズリー式は理論的には正しくても実際に採用するのは間違いであった(Wikipedia)ということです。
ご視聴頂きありがとうございます。私はグレスリー卿は好きなので動画も作りアップしています。グレズリー弁装置は好きです。
この問題点は今でも議論があるようですが、グレズリー卿のほうが優勢みたいです。
確かに急行旅客用ではメンテに難あるようですが、貨物機ですとALCOが使いこなしていますね。
グレズリーさんのが今は優勢!そうなんですね!ペパコーンではないのですね。Wikipediaもあてにならないかもです。ま、本来はWikipediaなんかあったらあったの状況証拠でしかないのですが。しょせんネット上ですがもうちょっと勉強してみます。
実際A4登場後もフライングスコッツマンはA3牽引だったそうです。
関節部分の耐熱性を考慮してNi合金を用いたけど、
軽量化の肉抜きによる強度低下、放熱性と潤滑剤との相性の悪さで、
滅茶苦茶になったって何かで読みました。
ご視聴頂きありがとうございます。満鉄アジア号が戦時中運行停止になったのは、高性能の米国製潤滑油が払拭したのが直接の原因のようです。
YSも似たような境遇ですよね。期待の新型として登場したものの現場からの評価はイマイチで(YSはパイロット連中からはあまり好かれていませんでした。)ファンからは絶大な人気があるという点が。両者の一番の違いはYSの方が圧倒的に長く使われていることですね。
ご視聴頂きありがとうございます。YS11をはじめ航空機や船舶は機関車のようにある意味いい加減なところがないですからね。破棄する理由が無いのでしょう。機関車はフルスピードで走ってもせいぜい短時間ですし、駅で停車し、坂道を惰行でき、安全マージンが緩くても何とかなるものなので、C53のようなちょっと問題の機関車が出来てくるのでしょう。
YSは設計が軍用機しか作った事がない人が多いのです、商用機は経済的で沢山の人、物を乗せて飛ぶ事が一番最初に求められる事です
やはり、戦前の日本の工業水準で、製造するのは、無理が多かったようですね。運用する現場は災難???。
ご視聴頂きありがとうございます。C53は災難だったとして、現場はC59が来たとき弁装置のめんどくさい調整とかメンテが無くなって大喜びだったろうと思います。現在もその調整のマニュアル(点検基準類はある)が無いのもそれが原因かと思っています。個別対応すぎてマニュアルにならないのでしょう。
@@Yukkuri-Lab さん
と言うよりマニュアルが普及し出したのは敗戦後
RTOが「軍隊帰りの素人整備士でも整備出来る様にする」為にマニュアル整備をさせたのがキッカケ。
それまではマニュアルに基づくロクな教育もせず軍隊式に
拳骨で強引に覚えさせるか
技術は盗んで覚えろ!
で放置するかだった。
実際鋳鋼製台車が造られなくなったのは、重量云々より
鋳鋼で台車が作れる技術者が定年退職して技術が途絶えた
のが真相。
実際鋳鋼台車には
溶接部の金属疲労による破断
と言う溶接にはつきものの弱点がなく
強度的には溶接台車以上だからね。
ちなみに技術は〜
のくだりはサリーワイズ氏(ドリアの考案者でニューグランドホテル初代総料理長)が変えようと努力した事です。
三式戦「飛燕」
呼んだ?
「飛燕」もハー40がぴえん🥺と泣きたい位のダメダメエンジンだった。
但し同じエンジンをイタリアは量産に成功し、品質も良かったそうです。
C53って欠陥だらけじゃないか
当時鉄道省はなぜこんな手間が掛かる 機関車を製造し運用につかせていたんだ
ただでさえ整備に手間が掛かるのに 流線形に改造したのはものすごく評判が悪く
機関士からは ただでさえ熱いのに熱の逃げ場がなくよけいに熱く
整備する側からも いちいちカバーを外し終わったらまたカバーをかける手間
これだけ整備する側泣かせなカマはいないでしょう
それに鉄道省はC59やC62クラスのカマで3シリンダーと流線形を製造しようと企んでいましたが
結局計画だけで終わりました
いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
戦前の国鉄の組織で背伸びした設計をするとこういうものができるという良い例です。日本軍の戦闘機も同じではないでしょうか?その反動が戦後の国鉄の左傾化だったり、ダメになった遠因かもしれないなと思っています。グレズリー弁は狭軌の日本と技術では結局無理だったんですね。
@@Yukkuri-Lab さん
横から失礼いたします
そこらに関しては
国鉄のみならず戦前の日本が「技術系の人的リソースがかなり不足していた」ことも一因なのかな?と思います
私事になりますが
私の血縁に新潟在住のジイサマがいるのですが
戦時中に新潟から広島の海軍系の工場に動員されたとのこと
「なんでわざわざ遠路はるばる新潟から広島まで引っ張り出すのか?」という話なのですが
どうやら鉄道好きにはお馴染みの新潟鐵工所で転換生産する段階になった時に備えて…という目論見があったようですね
(あくまでジイサマの話した内容なので話半分ですが…)
実際には転換生産までには至らず終戦になったようですが
当時15歳くらいの工業系旧制中学の『コドモ』を
「工業学校の生徒なら最低限の技術系知識はあるから転換生産の先行要員にしよう」というのは
戦争で人手が極端に足りない…というのを踏まえても
「初級~中堅クラスのエンジニアの人的資源が元々あまりにも少ない」ことを示していると思われます
(実際15歳くらいの学生が転換生産にどれだけ役に立ったかはあまりにも未知数ですしね)
こうした「中間層のエンジニアの不足」が
設計や試作を担当するごく一部のエリート技術者と
実際に現場で取り扱う作業者との橋渡しや穴埋めの役割を果たすべき存在の不足を呼び
「理屈は立派だが実用性が非常に低い」ケースや
「現場での改修が各地でバラバラで体系的なフィードバックが設計や試作の部門になされない」というような
一種の『断裂』を生んでしまったのではないか?という気もしますね
またまた長話になり申し訳ありません(^-^;
@@ふわふわ青花火 さん
更に中堅層の技術者をどんどん徴兵して
もっこ担ぎや人間ミサイルにしてましたからね。
もし日本がイギリスのトルネードみたいに新しくSL造ったら,3シリンダーを使いこなせるかもしれないですね!あとc53って言う3シリンダー機が日本に1台残っているのは奇跡ですね!
ご視聴頂きありがとうございます。日本では図面を描けるエンジニアがいないでしょうから、英国に依頼して日本で組み立てすることはできるでしょう。
せっかくなので、三島ー静岡間の新幹線軌道で走れる蒸気にして欲しいですね。荒唐無稽でしょうがバブルの時、オリエントエキスプレスを持ってきてD 51に牽引させたのですから、やる気があればできますよね。でも誰もやらないでしょうけど。
@@Yukkuri-Lab しかし今は日本の在来線も高速化しているので,110km以上走れるSL造っても問題ないと思いますよ!それに同じ1067mmの鉄道の国の南アフリカ(南アフリカ国鉄レッドデビル)やインドネシア(インドネシア国鉄C53)とかが100km以上走れる蒸気機関車を保有していたので!
ご存知でしたら申し訳ないですが、現在サイト日本には2機の3シリンダーがあります
@@狭山-m5n C53形45号機と成田ゆめ牧場の9号機関車ですね!
@@undead460 よくご存知で!
生でスリーシリンダーを見聞きできたのはほんと幸せでした。
今日山の日では?
ご視聴頂きありがとうございます。本当ですね!海と山を入れ違えてました。
とにかく現場泣かせ且つ
災厄車輌として蛇蠍の如く
忌み嫌われてデビューして
僅か20年余で引退を余儀
なくされた黒歴史機関車
さすらいのアルバトロス さん、いつもご視聴いただきありがとうございます。私はいつも批判的にC53を述べるのですが、反論される方々のご説明ももっともなことで、根強いファンやこの技術への理解は根強いんだなぁと思ってます。
C53と言えば43号機だなぁ(C55と言えば20〜40号機かなぁ)、無骨さとシャ-プさを兼ね備えてる感じがして大好きだよ
ご視聴頂きありがとうございます。43号機は流線形ですね。私はノーマルのが好きです。
技術的に意味の少ないフィーチャーってちょっと苦手なんですね。
無骨さとシャ-プさが共存してるってのが好きだったりも(70・80系なんかも)
私は鉄道は個人的には格好いいのが好きなのですが、ED42だけはあれは見ていて恐怖でした。
今でもあの轟音と悲鳴のような騒音は思い出します。怖かったです。
あのサウンドを味わってみたかったよ〜、羨ましい〜
C53は最高140kmを出したという非公式の記録がある。機関士が招集のため自暴自棄になって思い切り飛ばしたらしいが
SKTさん、ご視聴頂きありがとうございます。
その話どこかで聞いたことありました。
動輪径からは可能な速度ですよね。でも客車がぶっ壊れそうですね。
129kmを出したC6217もまだ余裕があったとの事、鉄橋の上だしさぞ怖かっただろう。他のC62だとどうだったか、宮原のエースの29番機は、不調機の2番機なら?場所の関係で名古屋のカマが選ばれたのだろうが
SKTさん、17号は単機でしたね。当時の旧型客車は95km/hが限度だったようでしたが、それ以上になるとどうなるのか興味あります。
否
昨今の軽自動車は三気筒でないとお話にならないのと同じ話なんで
昭和の時代は四気筒の方が高級で通用してたけどさ
ご視聴頂きありがとうございました。
軽のエンジンは三気筒でサプライヤーチェーンが出来上がってきるのでぃまさら4気筒はあり得ないですね。
早晩BEVになるでしょうけど。
島秀雄失敗伝説その1
ですね。
ご視聴頂き有難うございました。島秀雄のことは批判したり、持ち上げたりしていますが、日本の少ないリソースの中で良く頑張ってくれたとはおもってぃす。
@@Yukkuri-Lab さん
島秀雄は大型機関車の設計はまるでダメ
と言う典型的日本人技術者ですが
小型機C11の設計(これも当初企画していた「大阪ー京都、大阪ー神戸と言った近い距離にある大都市間を結ぶ快速列車運行」と言うドイツ「ヘンシェルヴェーグマン」の日本版的な運行からは早期に撤退してますが、これは島秀雄の設計ミスではなく当該区間が京阪や阪急などとの競争を抱えて早期に電化された為で、皮肉にもこの結果地方路線に転用された事がC11の名声と島秀雄の高評価、「汎用性を持たせる」成功体験が三河島事故で露呈した「D51の致命的な欠陥」を招いたのですが)と何より
自分には大型機関車の設計能力がまるで無く、なんちゃって先進国日本の盛りまくった工業力ではその量産も無理
と割り切って電車の将来性を見抜いて自分の設計能力の無さを逆に活かしてその改良をプロデュースした事と、親子二代持っていた「スモールエンジンポリシー」を戦争後綺麗さっぱり破棄して「ラージエンジンポリシー」のC62を生み出した柔軟性とは評価すべきで
もし三河島事故で自分が作った鉄道友の会から追放される悲劇が無かったら
日本の鉄道趣味はもう少し大人の趣味になって
クズ鉄集団が運行妨害したり
キチガイマニアがどうでもいい知識をドヤ顔で自慢しまくる異常事態は避けられたのかも知れませんね。
ちなみに糸川英夫技師は島秀雄の人身掌握術を見抜いた事と
同じ技師として同情したこともあり
国鉄と鉄道友の会からダブル追放された島秀雄に
全く畑違いのロケット開発を任せてます。
とても興味深いお話ありがとうございます。
戦前のエース
佐藤宏さん、ご視聴いただきありがとうございます。動画では文句を言っていますが、形は好きな機関車です。
全部ワルシャート式にすべきだったと思うんだけどなあ
ご視聴頂きありがとうございます。グレズリー弁のメリットは軽量であることと、コストが安いことです。英国は3気筒どちらもありますが、急行旅客用としてはワルシャートなのかなと思います。
ユーザー支点
どこかで視点を書き間違えていましたでしょうか?
@@Yukkuri-Lab はい。
支点と書き間違えていました。誤字見つけていただきありがとうございました。
さらに誤字・脱字無いように注意いたします。
うぽつっす
あの…みんなC53嫌いなの…?
ご視聴頂きありがとうございます。私は大好きです。一度音を聞いてみたいです。
機関車に罪はないですが、設計した人とその組織が拙かったと思っています。
@@Yukkuri-Lab 島秀雄さん…まぁ3気筒の知識も経験も皆無だから仕方ないっちゃ仕方ないですけど…みんなC53に冷たすぎない…?
梅小路も大宮もC53に関心が薄れているのはよくわかっています。鉄道のプロがそのくらいですから一般の人の関心もほぼないのでしょうね。
C53は見たこともない人が99%で、写真も少ないですから仕方ないですね。
@@Yukkuri-Lab 4月に京都に行った時に初めて見ましたがあれも性能はともかく魅力的な機関車だと思うんですけどねぇ…
スタイルは最高です。スタイルは大好きです。